訃報:アルトゥーロ・ガルスター(Arturo Galster)

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アーサー・フランシス・ガルスター(1959.5.7-2014.8.25)


写真はこちらから。

藤吉付記:いつもお世話になっているサンフランシスコのGLBT歴史博物館のキュレイター氏より「友人でSFのクィアシーンの重要人物が亡くなった。追悼記事を書いてくれるメディア関係者がいたら知らせてほしい」と連絡があったものの、そもそも藤吉にはそういう方面に知り合いがいないので、ひとまず彼の作成した紹介文を日本語訳して掲載しておく。ガルスター氏のご冥福をお祈り申します。
なお、キュレイター氏の作成された元の記事はこちら(PDF)で。

アーサー・フランシス・グザヴィエ・ガルスターが2014年8月25日(月)に亡くなった。友人やファンには「アルトゥーロ」として知られていた。亡くなったのはサンフランシスコのカリフォルニア・パシフィック・メディカルセンターのデイヴィスキャンパス。8月23日(土)深夜から24日(日)早朝にかけての未明、サンフランシスコ、ミッション地区にあるドロレス公園での事件で頭部に負傷した。翌日病院に収容されたが間もなく死亡した。

死因
故人の兄弟であるジョゼフ・ガルスターは家族を代表して2014年9月3日に以下のようなコメントを発表した。
「サンフランシスコ市および郡の主任監察医からは、アルトゥーロ・ガルスターの死は殺人によるものではないと裁定した。アルトゥーロは亡くなる36時間前に暴力をふるわれているが、それは死と無関係である。監察医はまだ最終報告書を出していないが、家族に対しては鬱血性心不全が最も可能性の高い死因だと述べた」

遺族
アルトゥーロ・ガルスターの遺族には、兄弟のロッド・ガルスター、ジェリー・ガルスター・シニア、リック・ガルスター、ジョセフ・ガルスター、グレッグ・ガルスター、姉妹のミリアム・ガルスター、ヘレン・エリオット、ケイト・フェターマンがいる。ほかに17人の姪と甥、その子どもとして11人がいる。さらに家族同様のつきあいのある友人や仲間(選択家族)がサンフランシスコだけでなく全米さらには諸外国に大勢残された。

葬儀
演劇界でのガルスターの仲間で彼の思い出をたたえるトリビュートショーが計画され準備が進んでいる。このショーは9月22日(月)の午後7時半よりサンフランシスコのカストロ劇場で開催予定。詳しくは下記にて。
A Celebration of Arturo Galster: Indiegogo Campaign
http://www.indiegogo.com/projects/a-celebration-of-arturo-galster

Facebook Invitation
https://www.facebook.com/events/277515565782268/

これに加え、ガルスターの家族は私的な追悼式について計画中である。こちらはフィラデルフィアでの開催になる模様。

遺族より
ガルスターの姉妹ケイト・フェターマンは家族を代表して次のようなコメントを公表した。
「彼が30年以上も暮らしたサンフランシスコのミッション地区でよく知られた人物だったアルトゥーロは、養子として迎えられた街でその象徴的で典型的な特徴となるようなものを身につけた。それは情熱であり、恐れを知らない態度であり、屈することのない生への意欲だ。サンフランシスコは彼のアイデンティティの中心部分だったが、いま私たちがきょうだいや姪や甥としての目でとてもはっきりわかったのは、アルトゥーロが本当にサンフランシスコのアイデンティティの一部をなしていたということだ」

「サンフランシスコにいる彼の選択家族や友人や仲間や近所の人々からいただいた、あふれんばかりの愛情と気持ちに私たちは圧倒されていた。ソーシャルメディアにたくさん投稿された写真や思い出話から彼の人生をたどりなおせるだろう。彼の家族として私たちは、今この時に私たちと思いと祈りを共にしてくださるすべてのみなさんに心からの感謝の気持ちを表したい」

青年期
ガルスターはフィラデルフィアで育ちそこで学校に通った。フィラデルフィアのファザー・ジャッジ高校にいたとき彼のミュージカル演劇への関心が生まれた。そこでいくつかの役を演じたのだが、ゴスペルもそこに含まれる。彼が高校を卒業したのは1977年だった。

1977年から1978年にかけて彼はフィラデルフィアにあるテンプル大学のタイラー芸術学校で学んだ。

1978年に彼はサンフランシスコに移り、サンフランシスコ芸術学校に入ってそこに4年いたあと学位取得まで1科目を残して学校を離れた。

舞台歴
アルトゥーロ・ガルスターは1980年代の早くから2014年に亡くなるまで、アメリカやほかの諸国の演劇、ミュージカル、キャバレーショー、映画などに出演している。カルトなドラッグ映画2本に出演したが1本はVegas in Space (Troma Entertainment, 1991)でのヌードルズ・ネビュラ役、もう1本はVirtue II (Margin Films, 1999)のPatsy Cline役である。Boys Night Out (1996)という短編でも助演を務めている。このほかテレビのNash BridgesというシリーズのJavelin Catcherという回ではFabregeというドラッグ・クイーンの売春婦を演じている。

サンフランシスコの演劇界では、しっかりつくりこまれ多くのばあい目をみはらせるような舞台芸術に縁者として参加したが、これは1980年代半ば以降にこの街で評判をとったクィアカルチャーのハイライトをなすものだ。彼が演じた舞台には次のようなものがある。Naked Brunch, Phillip R. Ford’s Dolls, Christmas With the Crawfords, Eve, Dirty Little Showtunes, Naked Boys Singing, Half-a-Dozen Dorothies, Lavender Lockerroom, Stale Magnolias, Simply Stunning: The Doris Fish Story, Scalpel! The Musical, Hedwig and the Angry Inch and Pearls Over Shanghai

1982年から1989年にかけて毎年夏にガルスターは、国民的スーパースターの歌手パツィー・クラインとして、メンフィスGスポットというトリビュート・バンドと共にツアーを組んだ。この舞台はアトランタ、ダラス、ロサンゼルス、マイアミ、ニュー・オーリンズ、ニューヨーク、サンフランシスコ、そしてロンドンやトーキョーののナイトクラブなどで上演された。

また彼は往年のハリウッドスター、マレーネ・ディートリッヒとジャズミュージシャンのチェット・ベイカーへのオマージュとなる作品を制作、上演し、そこで彼はチェスティ・ベイカーという架空の未亡人歌手を作り上げて演じた。

1995年から2012年までガルスターは、プロデューサーのマーク・ヒュースティスがカストロ劇場で催したショーの常連だった。このショーでは新旧の映画が一緒に上映され、映画スターが登場したりドラッグなトリビュートショーが上演されたりした。このうちガルスターは15作品に登場し、Bye Bye Birdieのコンラッド・バーディー, Bewitchedのエンドーラ、 Project Runwayのティム・ガンといった役を演じた。

さらにガルスターは1990年代、2000年代には著名なクィアナイトクラブにいくつも出演し、そこにはKlubstitute, DNA Loungeの DragstripやTrannyshackなどがある。

日本滞在(1986–1990)
1986年から1990年まで、ガルスターは日本に住みついた。日本で彼は日本語を習い、ケニー・オガワ狂言劇団と共に日本の伝統的な舞台芸術を学び、そして演じた。この劇団は英語で狂言を演じるグループで、東京、横浜その他の都市で公演を行なった。

藤吉注:ケニー・オガワ狂言集団とはこの劇団であるようだ。

彼の友人ケイト・クリッペンスティーンによれば「アルトゥーロは「かまえ」を身につけるのにとても勘がよく素早かったしもちろん声もよかった。座長のドン・ケニーはアルトゥーロのために最高の役を用意した」。

クリッペンスティーンというのはこの方(音が出ます。YouTube)。

付言すると、ガルスターは銀座の歌舞伎座で開かれた歌舞伎のワークショップに選ばれて参加している。このワークショップの終わりには最も才能ある参加者が選ばれて歌舞伎の隈取りをしてもらい男性の役柄の衣装をまとうことになっている。ガルスターはワークショップの生徒としてこの名誉に浴した。

日本でまだドラッグシーンが盛んでなかったころ、アルトゥーロと友人のキティ・リター・グリーン、それからポール・Dは当時有名だった芝浦GOLDに足しげく通い、その巧みな裁縫の技とデザインの能力でつくりだしたドラッグな衣装で周囲の目をひいていた。以下のYouTubeで当時の映像を見ることができる。1分33秒〜35秒にかけてガルスターが一瞬映っている。→YouTube

ほどなくしてガルスターとキティはFlicksという映画バーで雇われ演し物をすることになった。この店の名前は「日本語だと「フリークス」と聞こえるのでガルスターを喜ばせた」とクリッペンスティーンは述べている。ガルスターはジャズのスタンダードナンバーや、それからスペイン語ポルトガル語、フランス語の歌をうたった。最後の2年間はチェスティ・ベイカーも演じた。

ガルスターは日本のテレビ番組にエキストラとして出演したり、またナレーションなども務めた。外国の歌自慢を集めたショーでは準優勝に輝いた。雪国という日本の歌の素晴らしい翻訳も披露している。

サンフランシスコに戻ってからもガルスターは日本を何度も訪れ、亡くなる前の1年間だけでも3回訪問している。

裏方としての仕事
その経歴の途中でガルスターは、自分の舞台を支えるため運営面での仕事をいくつもしている。最も最近ではいずれもサンフランシスコにおいてTeatro ZinZanniとthe Immune Enhancement Projectでの仕事がそれにあたる。

その他のバイオグラフィー
2006年から2008年にガルスターはサンフランシスコにあるNā Lei Hulu I Ka Wēkiuというハワイ文化保存のため非営利で活動するフラダンス学校で学んでいる。その後も彼はこの学校の活動的なサポーターとして残り、2010年には学内のHula Ha HaにおいてHanna Hoというドラッグの役で踊り、勝者のひとりになっている。

ガルスターはドイツ語と日本語を話し、フランス語とスペイン語も少し話した。

ARTURO GALSTER ON YOUTUBE

YouTubeにはいくつも彼の動画がアップされているが、以下にいくつかを紹介する。

Patsy Cline and the Memphis G Spots: Like the Rio Grande (1992)
http://www.youtube.com/watch?v=iBaMZKz1x-g

Serving as Drag MC at Dragstrip at the DNA Lounge (1996)
http://www.youtube.com/watch?v=zO_MJVi9MPo

As Fabrege, a drag-queen streetwalker, on Nash Bridges―Season 1, Episode 5 (1996)
Posted online only in a version dubbed in French for broadcast in Luxembourg; skip to 32:30.
http://www.youtube.com/watch?v=zconzTJz8QQ

Arturo Galster as Tim Gunn: Bad Boys of Project Runway (2007)
http://www.youtube.com/watch?v=5yAWN2LJYWc

Pearls Over Shanghai: Petrushka (July 2014)
http://www.youtube.com/watch?v=8wb1FwdewYc

あと、キュレイター氏が送ってくださったガルスター氏の写真。最近日本へおいでになったときに撮影されたものとのこと。あらためてご冥福をお祈り申します。
 





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